静かに癒やしが満ちていく、小さな蜂蜜店
東京・経堂の静かな住宅街。
その一角に、ふっと心がゆるむような空気をまとった小さなお店〈山とハチミツ〉があります。扉を開けると、蜂蜜の甘い香りだけでなく、「大切に扱われてきた商品」が漂っています。
それは、店主・田中央枝(たかえ)さんの雰囲気そのもの。柔らかく、あたたかく、芯のある田中さん。

病室の窓から見た“季節の移り変わり”
田中さんが蜂蜜の世界に入ったのは、ある日突然の病気で入院したことがきっかけでした。
「病室の窓から、季節の移ろいを“ファミレスの看板”でしか感じられなかったんです。」
隣のベッドでは余命を告げられた患者さんが季節を待っていた。病棟で見た「夏のうなぎの広告」が、妙に切なく胸に残った。
その時。
差し入れでもらった一冊の「食の本」に救われるとは想像もしていませんでした。
「“食べること”って、生きることなんだ。
本当に自分は食べ物が好きだったんだって思い出したんです。」
退院後、“食”のイベントにふらりと足を運んだことが次の糸を引き寄せます。
そこで出会った蜂蜜販売の男性が、こんな言葉をくれました。
「日本ミツバチ?東京でも飼えるよ。やってみれば?」
この一言が、田中さんの人生をゆっくりと動かし始めます。
長野の畑、東京の庭
最初の巣箱は、長野の畑で偶然分蜂(ぶんぽう)したもの。
分蜂とは蜂が元いた群と分かれて別の群になること。それをおすそ分けしてもらい、東京へ。
さらに近所のご夫婦が、「あなたが大事にするなら庭に置いていいわよ」と言ってくれたといいます。
こうした “やさしさの連鎖” が、〈山とハチミツ〉の始まり。
そして取れた蜂蜜を友人に渡すと、「こんな味は初めて」と驚かれる。
「ハチミツって、こんなに個性があるんだ」
その感動が、田中さんを本気にさせました。
“無理に逆らわない”“執着しない”という愛
蜜蜂も蜂蜜も、自然からの預かりもの。だからこそ、田中さんはこう言います。
「無理なら無理でいいんです。自然にも、自分にも逆らわない。」
やめる決断も受け入れる。形にならない時は手放す。人間関係も、仕事も、蜂蜜も同じ。その姿勢は“淡泊”に見えて、実はとても深い「愛」です。
「期待しすぎない。依存しすぎない。そうしないと、ほんとの感情が見えなくなるから。」
忙しさの中で自分がすり切れると、店にも、家族にも、お客さんにも影響が出てしまう。だから田中さんはまず“自分を満たす”ことをとても大切に考えています。
自分と子ども、そして近くにいる人たち
「愛」について尋ねた時、田中さんはゆっくりと言葉を選びながら話してくれました。
「自分の子どもは、私のことをまっすぐ見てくれる存在なんです。」
子どもが不安定になると、家でも店でも、すぐに“揺れ”を感じる。
お客さんも同じ。満たされていない人は、満たされていないというサインを発してくる。
だから田中さんは気づいたのです。
「まず自分を満たすことが、いちばん近くの人を幸せにするんだって。」
蜂蜜を売ることは仕事でもあり、同時に 自分と周りを整えるための“生活そのもの” になっています。
“ゼロに戻る”ということ
大人になると“自分を満たす方法”がわからなくなる。そんな問いに対しての田中さんの答えは、とてもシンプルでした。
「まず“空っぽになること”。出し切らないと、何も入ってこないから。」
疲れたら休む。会いたくなかったら会わない。情報から離れる。
そうしてゼロに戻ると、暮らしがまた穏やかに流れ始める。
蜂蜜も、植物も、人も、“余白があるところにこそ恵みが宿る” のだと田中さんは教えてくれます。
〈山とハチミツ〉は、やさしさの循環が始まる場所
店に立つ田中さんの周りには、なぜか人が集まってくるのだそう。
蜂蜜を届けてくれる人、野菜を分けてくれる人、手づくりの菓子を持ってくる人。
「自分の近くの世界を大切にしていたら、その輪が少しずつ広がっていくんです。」
〈山とハチミツ〉は、蜂蜜の店でありながら、まるで 「小さな癒やしの拠点」 のような場所。自然と、蜂と、人のあいだにあるやさしい温度を思い出させてくれる場所でした。